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一年半程前ニュージーランドにいた頃、

ロックダウンで暇すぎて書いた
長文投稿がFacebook上にあったので、

こっちに転載しておきます。


なんかせっかく長文書いたのに
埋もれていくのもったいない
気がして。


一筆書きでバーっと書いた投稿だったので
そんな詳しく書いてないですし
読みづらいとこもありますが、

エピソード0的な話かな?
と思います。


まぁ病院行った時の待ち時間の暇を
ギリ潰せるか潰せないか程度の内容なので、

相当お暇であればご覧ください。



↓以下、Facebookより転載↓
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※ただのぼやきです。暇だったので書きました。田舎の柔術に興味があればご覧ください。

気付けば柔術を始めて
もう3年も経っていた。


そのうち柔術を離れた期間が
1年近くあるので、

まだ2年位の感覚だった。


この一年、8月に柔術を一旦やめ、
それから5ヶ月程離れてから再開。


しかし諸事情でまた
1ヶ月程離れてしまい、

またやっと再開できたかと思えば
コロナの影響で再開の見通しが
つかない状態になってしまった。


始めた最初の一年目は最低一週間は
あけないように練習していたので、

セブ島留学したりもしたが渡航後
現地の道場ですぐ練習を始めたり、

週末土日はみんなが遊びに行く中、
午前午後と違う道場をはしごして
二部練に励んだりしていたが、
今となってはこの始末だ。


状況的に仕方ない部分もあるが、
あの頃の熱意はどこへやら
といった感じだ。


さて、柔術を一旦離れたのは
自分の意志ではあるが、

離れれば恋しくなるものだ。


そうやって始めた頃の
自分を思い返すと、

数年前のことでも
もう懐かしく感じてしまう。


ーーー僕が柔術を始めたのは、地元福井の
福井ブラジリアン柔術クラブという
サークルだった。


地元福井では最初にして
唯一の柔術専門の道場だ。


元はねわざワールドの一支部だったが、
僕が入会する直前に独立したらしい。


この道場に高校の頃仲良くしていた
他校の柔道部友達Yくんがいたので、

ふとそれを思い出し
自分もやってみることにしたのだった。


彼は柔道の試合でも柔術の技を、
特に飛び関節を頻繁に使い、

高校生当時周囲からは
かなり色物扱いされていた。


"柔道界の爪弾き者"。


まさにそんな印象だった。


しかし、そんな柔道時代の汚名とは
裏腹にこのサークル内ではエース的
存在で、帯もすでに紫帯だった。


そのギャップに驚いた記憶が
まだ強く印象に残っている。


練習は週二回、市の武道館の
柔道場の一部を借りて行われ、
練習時間は大体1時間半位、

道場の閉会時間になると管理人の催促に
慌てて外に出るのが毎回の光景だった。


会員の総数は20人ちょっとだったが、
集まるのは毎回3,4人。


20人中大体は白、青帯で、
3人程の紫帯と、茶帯の先生が1人。


そして月一回遠方から
教えに来てくださる黒帯の先生もいた。


当初黒帯は自分にとって簡単に
会えるような存在ではなかった。


なのでその後黒帯が複数所属する道場に
所属した際はその光景に目を丸くした。


茶帯の先生は眼鏡職人で、試作品ができると
練習にそれを持ってきて会員にかけて
もらい感想を聞いていたが、

それもまた僕達にとっては
日常的な光景だった。


歴史が好きなのか、
それについて話出すと柔術の話より長くなり、

大抵は先生の歴史の話と
持論を聞いてから練習が始まった。


そんな少しクセのある先生だったが、
実力は同サークル内では圧倒的で、

他の者を寄せ付けない強さだった。


身長は160cmあるかないかで
会員の中でも一番低かったが、

それでも他の会員を
圧倒できるテクニックがあった。


キャラクターのせいか先生なのに
いじられまくっていたが、

指導者としては会員の誰もが
文句を言えなかった。


そんな先生が牽引するチームの練習内容は、

・ストレッチ
・ガードワーク
・シチュエーションスパー
・テクニック
・スパー

という流れで行われた。


特に"ガードワーク"は、先生の柔術に
対する思想がよく反映された練習で、

内容的にはオープンガードで手を
なるべく使わずにガードし
続けるというものだった。


この練習中は何か特定のガードを
作ることを禁じられ、

手でグリップを作るのも
同様に禁じられていた。


先生曰く、柔術で一番大事なのは
ガードであるとのことで、

これによって柔軟でディフェンシブな
ガードを身に付けられるよう
意図されていたのだ。


先生は、吉岡大さんという既に
亡くなられた柔術家を大変に尊敬していた。


僕自身あまり詳しく知らないが、
その影響があったのかもしれない。


この練習のおかげか、自分にとって
オープンガードは今でも自分のスタイルの
中心的なテクニックになっている。


何より、相手の動きを封じる
他のガードより動けて楽しい。


なので自分にとってはしっくりときた。


この練習に加え、先生やエースのYくんは
スパーでどんな動きをしているか
よく観察して真似てみたことで、

早い段階で柔術的な動きは
なんとなく身につけられたと思う。


入会して三ヶ月目の初の大会では
準優勝できたりして、

尚のこと意欲がでてきて挑んだ
6ヶ月目の大会では、

留学直前であり同チームの所属としては
最後の大会であったりしたので、

階級別は変に意気込んで
緊張しまくって2回戦敗けだった。


それが悔しくて吹っ切れた
無差別級では、初戦不戦勝、

2戦目はその大会のミドルヘビー級
優勝の相手とやって中盤まで
ポイントリードされたものの、

初めてやってみた飛び関節が
極まって逆転勝ち。


相手が左利きのケンカ四つだったので、
まさか極まるとは思わなかった。


決勝は最上量級の優勝者であったが、
勝てこそしなかったものどんな
ポジションを取られても一本は
取られないように凌ぎ、

敗けこそはしたが会場の拍手と
審判の「強かった。」という
言葉が嬉しかった。


その後帰ってからは練習に参加。


練習中、階級別で負けた悔しさが
込み上げてきて涙が溢れてきたが、

それを気づかれたくないので
出稽古に来ていた某関西柔術界の
重鎮的な人の道着でしれっと拭った。


必要以上に顔押し付けてプレッシャ
ー与えてる感出したおかげか、
ばれずに済んだ。


しかし、そんなことを思い返すと、
悔しくて泣くほど熱中できたものも、
それまでなかったなぁと思う今日この頃だ。


あれから3年の間、エースのY君は、
最後有終の美を飾るように某有名
若手選手に勝った後、

社会人になり柔術はほとんどしていない。





そして僕に至ってはもはや
何してんのかわからない状態で、
今後のことなど尚更わからない。


3年の節目に、
今一度初心に戻って柔術してみようかなぁ。

そんなことを思う、
久々に体を動かしてみたら明らかに
体がギスギスいっていることに
気がついた今日の朝でした。




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写真は入会して数週間後のもの。
 人が少ないので集合写真っぽいのがあまりなかった。